『リコリス・リコイル』の脚本について記事を書いたけれど、その後、足立慎吾さんの思想を紐解くインタビューを見つけた。
アニメ制作者たちに好きな映画3作品を語ってもらう連載企画。足立慎吾さんは、シルヴェスター・スタローン監督・脚本・原案・主演『ロッキー』シリーズ、森本晃司監督『とべ! くじらのピーク』(1991)、クエンティン・タランティーノ監督・脚本『パルプ・フィクション』(1994)を挙げている。
そして『パルプ・フィクション』の記事で、脚本に対する彼の考えを端的に表す言葉を述べている。
ストーリーやキャラクターの関係性を伝えるために、ここでこのセリフを喋らせておかなければいけない等と考えてしまいがちだと思うんですけども。この映画観てるとそういうストーリーを駆動させるためのセリフは不要なのかもって思っちゃう。
もっと言うなら、映画におけるストーリーって、実はどうでもいいのかなという風にも感じたり…。
クエンティン・タランティーノ監督への侮辱では?
この記事は2021年9月4日に掲載された。つまり『リコリス・リコイル』の制作中にインタビューが行われているはず。インタビューの中で「アニメでの生っぽい会話劇をいつか作りたい」とも発言している。2021年12月31日に情報解禁される前なので、「いつか作りたい」と言葉を濁していたのだろう。
このインタビューを読むと、『リコリス・リコイル』の様々なことが腑に落ちる。『パルプ・フィクション』にように、日常生活と殺人が地続きで「お喋りしていたときと同じ表情で殺す」。
説明台詞を使わない。会話、表情やキャラクターの芝居、構図やレイアウトやミザンセーヌ(mise-en-scène)(フレームの中で描くもの、描かないものの意味)、色彩、背景美術、撮影処理、声優のお芝居、音響効果、音楽などで描こうとしている。
その一方で、描きたいことは丁寧に描いているが、それ以外の多くの要素は適当。見せたい画面ありき。まるでアイディアやシチュエーションやイベントをたくさん並べて、その後から物語を考えたかのよう。
これはこういう作品ですと提示した世界観や設定を無視し、自分たちの手で壊していく。これは、J・K・ローリングが第2作『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(2018)で失敗したことにも通ずる。
「前作で成したことの上で続きを作らない」とは何を意味するのか
具体的に例をあげると、それは私達が「黒い魔法使いの誕生」で見届けた結果も、この映画のつくり手たちはいつでも無かったことにするかもしれないということです。
(中略)
シリーズ物の特にSFやファンタジーでは、観客がその世界をどれだけ信じられるかが重要だと思うのです。
これは映画シリーズの話だが、テレビシリーズでも同じことが言える。前の話数で描いたことを無下にするストーリーテリングに思える。しかも設定を無視していることに、作劇上の意図が込められていると解釈できない。
足立慎吾さんは、『リコリス・リコイル』は千束とたきなの物語で、世界観や設定などは舞台装置に過ぎないとして制作したようだ。それならばなおのこと、視聴者が作品の立ち位置を把握しかねることがないよう気を配るべきだった。
ベテラン脚本家、辻真先さんは「現実からどう距離を置いた設定なのか目配りが曖昧で、美少女戦闘軍団でとりあえず纏めてみました、ではノリにくい」と述べている。
『リコリス・リコイル』は、フィクションにおける嘘と、現実世界を想起させる設定とのバランスが悪い。創作において嘘は、多くの事実を積み重ねることで成立する。
明るく楽しい作品にするならば、アサウラさんが考えたプロットのシリアス要素を全削除するくらいの思い切った決断が必要だったのでは?
第9話の感想で足立慎吾さんは「信頼できない語り手」ならぬ「信頼できないクリエイター」と書いたけれどその通りのようだ。
『リコリス・リコイル』にストーリーを期待してはいけない。映画にストーリーはどうでもいいという信条を持つアニメーターが、初めて監督し、初めてシリーズ構成を考え、初めて脚本を書いた。そして初めて、他の人が書いた脚本や絵コンテをチェック・修正した。
「初監督作品にはその映画監督のすべてが詰まっている」という言葉がある。足立慎吾さんもそうらしい。
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